小浜西組の建造物
水路
水路は、道の両側を通り、町全体を町割に沿って、縦横に走っています。
背割りになる水路は、清水町?柳町境から猟師町?常在小路境にかけてのみであり、大半は、屋敷地の前面を流れています。
必要である場合は、屋敷地から水路を引き出して幹線に流れ込ませ、また、海沿いの町では、直接、屋敷地から海へ水路を引いている所もたくさんあります。
堀川
嘉永6年(1年)3月、安政5年(1858年)8月、小浜は、2度にわたる大火に見舞われました。町奉行であった武久権十郎は、町の防火帯とするため、町の中央に新しい川を造ることを藩の重臣に提案しました。しかし、藩は、財政の圧迫を理由に聞き入れませんでした。そこで、武久は、町年寄の組屋六郎左衛門を説得して、資金調達の話をもちかけました。組屋はこの奉行の捨身の情熱に感動し、直ちに志水源兵衛などの町の有力者と協議して堀川講を組織しました。講は、50人を一講として、講当たり15貫文を拠出することとして三講が組織されました。さらに小浜遊郭篤志者からの支援金の追加もあって、合計65貫文の寄付金が集まりました。こうして、安政6年(1859年)3月から堀川を造る工事が始まりました。川幅4.5メートルの所々に水面まで行ける階段と消火水利の便に備えて、深い所を造り、2段の護岸石積工事も同時に行なわれました。
しかし、堀川が完了し、橋を架ける費用が不足していることが判明しました。そこで、有力町人の組屋氏が神田橋(土橋)の費用を、志水氏が住吉橋(板橋)の費用を、武久氏が日吉橋(土橋)のそれぞれが、橋を架ける費用を負担し、工事が完了しました。
武久氏は、藩命に背いたとして、敦賀町奉行に左遷させられ、悲嘆のうちに明治8年(18 年)11月、敦賀で亡くなりました。防火のために堀川を造った武久氏の業績は、小浜町にとって大きな恩恵を与えました。その功績を称えて、堀川河口に改修記念碑が建てられました。
翌年にかけて、防火のために作られた人工の川で、伏原村の杓川より水を引いていました。近世末期の都市計画の名残であります。川に面して、土蔵が多く建っているのも、火災時の延焼防止と考えられます。昭和59年(1984年)に川は埋め立てられ、今では、道路になっていますが、土蔵が点々と残っています。
井戸
井戸は、町全体に計27ヵ所にみられるが、中組に集中して分布しています。井マークとは別に泉と記されたものが3ヵ所ありますが、井戸との違いははっきりしていません。井戸が設置されている所は、大半は路上や辻、あるいは道に面した場所です。また、番家、薬師堂、町内地面などの公共の土地に設置されている井戸がたくさんあります。
特に番家、床(髪結い床)と一組になって設置されることがあり、当時の町における共用空間のあり方が感じ取れます。宅地内のものも少しはありますが、大半はこのような開かれた場所に設置され、公共性が高いと感じられます。また、『小浜町絵図』でも井マークが記載されていることや、『拾椎雑話』に各町ごとの記載に井戸の有無が調査されていることから、井戸が町の生活上重要であったことがわかります。
地蔵堂
地蔵堂は、所々の辻に見られ、人々の篤い信仰生活がわかります。絵図に描かれているものは少ないのですが、現在生活や地蔵尊そのものの性格からみても、実際はさらに多数存在していたと考えられます。
土蔵
小浜では、主屋と中庭の奥に防火用の土蔵があります。さらに、その裏側には水路が走っています。
土蔵の屋根瓦には、水の字が書かれていたり、立浪型の鳥衾があります。
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